フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
山奥の自給自足生活は本当に理想郷なのか?その裏にあるリアルな疑問と将来の設計図
テレビのドキュメンタリーやYouTubeなどで、都会の喧騒を離れ、山奥で自給自足の生活を送る人たちを目にすることがある。
ボロボロの古民家を自分たちの手で直し、畑を耕して野菜を育て、鶏を飼って卵を得る。
自らの手で汗水流して生きるその姿は、効率とデジタルに縛られた現代人にとって、どこか眩しく、強烈な憧れを抱かせる。
そんな生活に少しだけ思いを馳せてみる。
どこか人里離れた山奥に移り住んだ若い夫婦がいるとする。
ありがたいことに電気や水道のインフラは通っている。
ゼロからのサバイバルというわけではない。
庭を掘り起こして畑を作り、鶏小屋を建てて卵を自給する日々が始まった。
自給自足の第一歩だ。
夢にまで見た自由な生活を、ついに実現したのだ。
しかし、暮らしていくうちに、素朴な疑問が次々と頭をもたげてくる。
まず、「光熱費を払う収入はどうしているのか?」という問題だ。
インフラがあるということは、電気代や水道代、そして固定資産税などの現金支出が確実に発生する。
完全に通貨を断った生活ではない限り、どこかで現金を得る必要がある。
ネットを使った細々とした仕事なのか、週末だけ里に降りてアルバイトをしているのか。
スマートフォンは持っているのか。
自給自足といっても、現代社会のマネー経済と完全に縁を切ることは難しい。
そして、子供が生まれたときのことを想像すると、不安はさらに大きくなる。
子供は好むと好まざるとに関わらず、親の選択に巻き込まれ、この山奥で育つことになる。
ここで立ちはだかるのが教育と社会性だ。
毎日の通学はどうするのだろう。何キロも離れたバス停まで歩くのか、親が車で送り迎えするのか。
何より心配なのは、友達や多様な人との触れ合いの中で育まれるはずの「社会性」だ。
限られたコミュニティの中で育った子供は、やがて成長し、進学や就職の時期を迎える。
そのとき、この生活から独立して外の世界へ出ていくことができるのか、それとも親と一緒にこの山奥に縛られ続けることになるのか。
さらに、時間は容赦なく流れる。
子どもたちが巣立った後、夫婦は確実に高齢化していく。
近くにスーパーすらない環境で、年老いた身体で自給自足の作業を続けていけるのだろうか。
腰を痛め、畑仕事ができなくなったとき、食料はどう調達するのか。
何より深刻なのは医療問題だ。
急な病気やケガをした際、救急車が到着するまでにどれだけの時間がかかるのか。
病院へのアクセスが悪い山奥での高齢期は、想像以上にリスクが高い。
メディアは、自給自足の「美しい側面」ばかりを切り取りがちだ。
採れたて野菜の鮮やかな色、家族で食卓を囲む温かい笑顔、現代社会の人間関係のしがらみや雑音から解放された静寂。
それらは確かに真実の一部なのだろう。
しかし、それは生活のほんの一コマに過ぎない。
経済基盤、子供の将来の選択肢、高齢期の医療と介護という、綺麗事では片付けられない現実の壁が、必ずそこには存在している。
やっとつかみ取った「夢にまで見た自由」の中に、だ。
社会のしがらみから逃れたいという動機自体は否定しない。
だが、それをロマンのフィルターだけで捉え、美化しすぎてはいないだろうか。
結局、本当の自立とは、自然の中で仙人のように暮らすことではなく、社会とのつながりを絶妙なバランスで保ちながら、来るべき老後や次世代の未来までを見据えて設計された、泥臭い持続可能性のことなのか、と考えてしまった。
全てを承知の上でチャレンジした人たちに、後悔などないはずだ。
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