フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
人は、なぜ平凡な人生を選ぶのか
「将来、何になりたいですか?」
子どものころから、私たちは何度もこの質問をされてきた。
医者になりたい。スポーツ選手になりたい。社長になりたい。世界で活躍したい。大きな家に住みたい――。
社会は、こうした「夢」を持つことを素晴らしいものとして語りがちである。
では、「普通に暮らしたい」と答えたらどうだろう。
好きな人と結婚し、家族をつくり、仕事をして、休日には家でゆっくり過ごす。大きな成功もいらない。誰かに認められなくてもいい。ただ、穏やかに毎日を過ごしたい。
一見すると、何の変哲もない人生である。
しかし、人がこの道を選ぶ心理を考えてみると、そこには決して「何も望んでいない」という単純な話ではない。
むしろ、何を望むかを深く考えた結果として、平凡を選ぶ人もいるのである。
心理学では、人生の意味や目的意識と心理的ウェルビーイングには強い関連があることが研究されている。また、心理的ウェルビーイングを考える際には、自律性、他者との良好な関係、自己成長、人生の目的、自己受容など、さまざまな側面が重要だとされている。
つまり、人間にとって大切なのは、必ずしも「大きなことを成し遂げること」だけではない。
自分の人生を自分で選んでいるという感覚。
大切な人とのつながり。
そして、「これでいい」と自分自身を受け入れられる感覚。
そう考えると、平凡な人生にも十分な意味が見えてくる。
「平凡」は、本当に平凡なのか
そもそも、平凡とは何だろう。
会社員として働く。結婚する。子どもを育てる。住宅ローンを返す。毎日の食事をつくる。休日に買い物へ行く。年に一度くらい旅行する。
社会から見れば、ありふれた生活である。
しかし、その一日一日は、その人にとって一度しかない。
子どもの成長を喜ぶ父親。
仕事から帰ってくる夫を待つ妻。
毎朝、同じ道を歩いて職場へ向かう人。
定年を迎え、庭の手入れを楽しむ人。
外から見れば「普通」であっても、本人にとってはかけがえのない人生なのである。
むしろ、人生の大部分は、この「普通」の時間によってできている。
人は一生のうち、歴史に残るような瞬間を何度経験するだろうか。
おそらく、ほんのわずかである。
それ以外の圧倒的に長い時間を、私たちは食事をし、眠り、働き、笑い、誰かと話し、悩みながら生きている。
だからこそ、「普通に生きたい」という願いは、決して小さな願いではない。
人は「競争から降りる」ことを求めることもある
平凡な人生を選ぶ理由の一つに、競争から距離を置きたいという心理もある。
社会には、常に比較が存在する。
年収はいくらか。
どんな会社に勤めているか。
どんな家に住んでいるか。
子どもはどこの学校へ進学したか。
SNSを見れば、他人の成功や華やかな生活が次々と目に入ってくる。
その世界で「もっと上へ」と走り続けることに疲れた人が、「もう、自分は自分でいい」と考えるようになることもある。
これは敗北とは限らない。
競争に勝つことより、競争そのものから自由になることを選んだとも考えられるからである。
自分らしく生きることと、他人より優れることは、本来別の問題なのである。
「何者か」にならなくてもいい
現代社会では、「何者かになる」ことが強調される。
特別な才能を持つ。
起業する。
成功する。
有名になる。
大きな夢を実現する。
もちろん、それを目指す人生は素晴らしい。
しかし、その反対側にある「何者にもならない」という選択も、同じように人間らしい。
誰かの記憶に大きく残らなくてもいい。
社会から賞賛されなくてもいい。
自分と身近な人が幸せなら、それで十分だと考える。
そこには、「人生の価値は他人から与えられるものではない」という静かな人生観がある。
幸福について考えるとき、重要なのは他人から見た成功ではなく、自分自身がどのような人生を良いと思うかという主観的な側面でもある。ウェルビーイングの研究でも、「自分らしさ」や「自律性」、「人生の意味」などが重要な要素として扱われている。
それでも、平凡を選ばない人もいる
しかし、ここで「平凡な人生こそ素晴らしい」と結論づけてしまうと、それもまた一つの価値観の押しつけになってしまう。
世の中には、どうしても挑戦したい人がいる。
誰も歩いたことのない道を歩きたい人がいる。
大きな仕事を成し遂げたい人もいる。
名声を求める人もいれば、社会を変えたい人もいる。
そういう人にとって、平凡な生活はむしろ苦痛かもしれない。
毎日同じことを繰り返すより、失敗する可能性があっても未知の世界へ飛び込みたい。
それもまた、その人にとって誠実な生き方である。
結局のところ、人間は「どちらが正しいか」ではなく、自分にとって何を大切にしたいのかによって人生を選んでいるのではないだろうか。
安定を求める人もいる。
自由を求める人もいる。
家族を求める人もいる。
孤独を求める人もいる。
挑戦を求める人もいる。
静けさを求める人もいる。
そして、その価値観は年齢とともに変わっていくことさえある。
若いころには世界を変えたいと思っていた人が、年齢を重ねて「ただ穏やかに暮らしたい」と思うこともある。
逆に、平凡な生活を送ってきた人が、ある日突然、新しいことに挑戦したくなることもある。
だから、「どんな人生が正しいのか」という問いに、唯一の答えを求める必要はない。
大切なのは、他人の人生を見て「自分もそうしなければ」と思い込まないことである。
平凡な人生を選ぶ人には、その人なりの理由がある。
そして、平凡ではない人生を選ぶ人にも、その人なりの理由がある。
人生とは、誰かと競争して順位を決めるものではない。
最後に残るのは、「世間から見てどれだけ立派だったか」ではなく、自分自身がその人生をどう感じたかなのかもしれない。
あなたは、どうだろう。
もし誰からも評価されず、誰とも比較されず、SNSにも何も投稿する必要がないとしたら――。
それでも、今と同じ人生を選ぶだろうか。
それとも、まったく違う人生を選ぶだろうか。
その答えの中に、あなたが本当に大切にしているものが隠れているのかもしれない。
そして忘れてはならない。
平凡な人生を選ばない人生にも、平凡な人生を選ぶ人生にも、同じだけの価値がある。
人間にとって大切なのは、「正しい道」を見つけることではない。
自分が選んだ道を、自分自身の人生として引き受けていくことなのではないだろうか。
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