フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
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トランプ政権によるICCへの圧力――国際司法は「強い国」に勝てるのか
世界でいま、静かだが非常に重大な問題が進行している。トランプ政権によるICC(国際刑事裁判所)への圧力である。
ICCとは、戦争犯罪、人道に対する罪、ジェノサイド(集団殺害)、侵略犯罪など、国際社会にとって最も重大な犯罪を犯した「個人」を裁くための常設の国際裁判所である。1998年に採択されたローマ規程に基づいて設立され、2002年に活動を開始した。本部はオランダのハーグにある。国連そのものの機関ではなく、独立した司法機関である。
その最大の意味は、「自国で裁かれない重大犯罪を、国際社会が裁く」という点にある。
たとえば、ある国の最高指導者が戦争犯罪を行ったとしても、その国の司法制度そのものが指導者に支配されていれば、自国で裁くことは難しい。ICCは、そうした場合の最後の砦として機能することを想定している。しかもICCが裁くのは国家ではなく、国家元首や軍幹部を含む個人である。国家元首だから免責される、という仕組みではない。
だからこそ、ICCは「権力者にとって怖い裁判所」でもある。
そして現在、そのICCに対してトランプ政権が強烈な圧力をかけている。
2026年8月18日、米政府はICCの赤根智子所長と、アブドゥライ・セイエ上級訴訟担当官を制裁対象に指定した。米国側は、ICCが米国やイスラエルの政府関係者を対象として捜査を行い、イスラエルのネタニヤフ首相らに逮捕状を出したことなどを問題視している。制裁によって対象者は米国の金融システムから排除され、米国内にある資産も凍結される。
しかも、これは今回突然始まったものではない。
トランプ政権はICCを「腐敗し、政治化された組織」などと批判し、今年7月にはICCに対する外交的な圧力をさらに強め、加盟国に脱退を促す動きにも出ている。米政府はICCを「国家主権への脅威」と位置づけ、必要な措置を取り続ける姿勢を示している。
では、トランプ政権の狙いは何なのか。
第一に考えられるのは、米国や同盟国の政治・軍事指導者が国際司法によって拘束されることを防ぐことである。
米国はローマ規程に署名したものの批准しておらず、ICCの加盟国ではない。一方で、ICCは一定の条件の下で、加盟国の領土内で行われた犯罪などについて管轄権を持つ。そのため、米国が「自国の主権を侵害された」と考える余地が生まれる。
しかし、ここには非常に重要な問題がある。
もし「強い国だから国際司法の対象にならない」という考え方が世界に広がれば、国際法そのものの意味が薄れてしまうからである。
ICCは決して万能な裁判所ではない。自前の警察も持っておらず、容疑者を逮捕するためには国家の協力が必要である。だからこそ、大国の協力が得られなければ、その力は大きく制限される。
それでもICCが存在する意味は大きい。
なぜなら、「どれほど権力を持つ人物であっても、重大な犯罪については将来裁かれる可能性がある」という原則を世界に示しているからだ。
もし米国の圧力によって加盟国が次々と脱退し、ICCが資金、人材、捜査能力を失い、最終的に機能しなくなったらどうなるのか。
最も危険なのは、戦争犯罪や人道に対する罪が増えることだけではない。
もっと深刻なのは、「裁かれない」という期待を権力者に与えてしまうことである。
国際社会には、国家間の争いを扱う国際司法裁判所(ICJ)なども存在する。しかし、個人の重大犯罪を常設的に裁くICCとは役割が異なる。ICCがなくなれば、その空白を簡単に埋めることはできない。
「どうせ裁かれない」と考える独裁者や軍事指導者が増えれば、戦争への心理的な歯止めも弱くなる。
これは、第二次世界大戦後に国際社会が積み上げてきた「法によって権力を制約する」という思想とは正反対である。
もちろん、ICCにも問題はある。捜査や起訴の公平性、加盟国と非加盟国の関係、逮捕状の実効性など、議論すべき課題は多い。だからこそ必要なのは、問題があるから壊すことではなく、問題があるなら国際社会で改革することである。
今回、特に日本人として注目したいのは、制裁対象となった赤根智子氏がICCの所長であることだ。ICCは米国の制裁に対し、「司法機関の独立性に対する攻撃」だとして強く反発し、「いかなる圧力にも屈しない」と表明している。日本政府や欧州諸国などもICCへの支持を示している。
これは単なる米国とICCの対立ではない。
「国際社会は、権力者を法によって裁くことができるのか」
という、21世紀の世界秩序そのものをめぐる問題なのである。
強い国がルールを決め、強い国だけがルールの外に立つ世界になるのか。それとも、強い国であっても国際的なルールから完全に逃れることはできない世界を維持するのか。
ICCの存在意義は、まさにその境界線にある。
そして私は、この問題を考えるとき、「ICCが正しいか、米国が正しいか」という二者択一だけで考えるべきではないと思う。
本当に守るべきものは、裁判所そのものではなく、「権力より上に法がある」という原則だからである。
ICCへの圧力が世界に突きつけているのは、まさにその問いなのである。
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