フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
人は、なぜプロスポーツ選手を目指すのか
プロスポーツ選手を目指す人を見ていると、ときどき不思議に思う。
なぜ、そこまで厳しい道を選ぶのだろうか。
才能のある人間が集まり、その中でさらに競争しなければならない。努力したからといって、必ず結果が出るわけでもない。けがをすれば、それまで積み重ねてきたものが一気に崩れることもある。現役でいられる時間も長いとは限らない。
それでも、子どもの頃から「プロになりたい」と願い、その道に人生を賭けようとする人がいる。
その原点には、単純な「スポーツが好き」という気持ちがあるのかもしれない。
走ることが好きだった。ボールを追いかけることが好きだった。勝負することが楽しかった。練習して昨日できなかったことが今日できるようになることが嬉しかった。
人間にとって、「好き」は非常に強い動機である。
しかし、プロを目指す段階になると、それだけでは足りなくなる。
「好きだから続けたい」という気持ちは、やがて「自分がどこまでできるのか確かめたい」という気持ちに変わっていく。
昨日の自分より強くなりたい。
誰にも負けたくない。
自分の限界を知りたい。
そう考える人もいるだろう。
そこには、自己成長への欲求がある。
一方で、「認められたい」という気持ちも無視できない。
試合で活躍すれば、多くの人から注目される。名前を呼ばれ、応援され、自分の存在が社会に知られていく。
これは決して悪いことではない。
人間には、自分の存在を誰かに認めてもらいたいという欲求がある。スポーツは、その欲求を非常に分かりやすい形で満たしてくれる世界でもある。
ただし、そこには厳しさもある。
プロの世界では、評価が数字になって表れるからである。
打率、得点、勝敗、タイム、順位、記録。
「頑張った」という気持ちだけでは評価されない。
だからこそ、プロスポーツを目指す人の中には、「結果によって自分の価値を証明したい」という人生観を持つ人もいるのかもしれない。
しかし、ここには一つの問いが生まれる。
人間の価値は、勝敗や記録によって決まるのだろうか。
この問いに、簡単な答えはない。
競争することに大きな意味を感じる人もいる。一方で、誰かと比較されることより、自分自身の成長を大切にする人もいる。
だから、プロスポーツ選手を目指すことが「正しい人生」で、それを目指さないことが「挑戦しない人生」というわけではない。
むしろ興味深いのは、同じスポーツを好きでも、人生の選択がまったく違うことだ。
ある人は、プロを目指して厳しい競争の中に入っていく。
別の人は、スポーツを生涯の趣味として楽しむ。
また別の人は、選手を支える仕事を選ぶかもしれない。
さらに別の人は、スポーツとはまったく違う世界に進み、それでも学生時代に打ち込んだスポーツから得た経験を人生の支えにするかもしれない。
どれが正解ということではない。
大切なのは、「自分は何を求めているのか」である。
勝ちたいのか。
成長したいのか。
認められたいのか。
好きなことを仕事にしたいのか。
仲間と一つの目標を追いかけたいのか。
それとも、自分の限界に挑戦したという事実そのものが欲しいのか。
もしかすると、プロスポーツ選手を目指すという選択の奥には、「一度しかない人生なのだから、自分がどこまで行けるのか試してみたい」という思いがあるのかもしれない。
その気持ちは、スポーツに限ったものではない。
人は、自分の人生を「やってみなかった」という後悔で終わらせたくないと思うことがある。
だから挑戦する。
たとえ失敗する可能性が高くても、「挑戦しなかった人生より、挑戦した人生を選びたい」と考えるのである。
一方で、挑戦しないことにも意味がある。
家族との時間を大切にしたい人もいる。
安定した生活を望む人もいる。
競争よりも、静かに自分の好きなことを続けたい人もいる。
それもまた、一つの人生観である。
プロスポーツ選手を目指す人を見るとき、私たちは「すごい」と思うだけでなく、その人が何を求めてその道を選んだのかを考えてみると面白い。
そして同時に、自分自身にも問いかけてみたい。
もし失敗する可能性が高くても、どうしても挑戦してみたいことはあるだろうか。
あるいは挑戦することよりも、今ある日常を大切にする人生を選びたいだろうか。
人生には、競争する道だけがあるのではない。
大きな舞台を目指す人生にも価値がある。
静かな場所で、自分らしく生きる人生にも同じだけ価値がある。
プロスポーツ選手を目指すという道が特別なのは、それが「成功する人生」だからではない。
そこに、自分の人生をどう生きたいのかという問いが、非常に分かりやすく表れているからなのだ。
そして、その道を選ばなかった人生もまた、決して劣った人生ではない。
結局のところ、人が選ぶべき道は、他人から見て輝いているかどうかではなく、自分自身が「この人生を生きてよかった」と思える道なのかもしれない。
※フリーマン柴賢二郎の著書をアマゾンで販売中です。

ドライブ・(ウィズ)・マイ・マザー | フリーマン柴賢二郎 | 小説・サブカルチャー | Kindleストア | Amazon

閉ざされた扉が開かれる時: 孤高の改革者が挑む魂を懸けた組織改革 反発と葛藤の末に掴む希望の光 | フリーマン柴賢二郎 | 小説・サブカルチャー | Kindleストア | Amazon
