人は、なぜ「お祭りを運営する側」になるのか。

フリーマン柴賢二郎の流儀

~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~

世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。

何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、

幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。

 

人は、なぜ「お祭りを運営する側」になるのか。

 

日本の各地で一年中さまざまなお祭りが開催される。

 

五穀豊穣を願う祭り、子どもの誕生を祝う祭り、地域の神様に感謝する祭り、長い歴史を持つ伝統行事、そして地域の人々が楽しむための祭り。その形も規模も実にさまざまである。

 

祭りの日には、多くの人が集まる。見物する人、屋台で食べ物を買う人、酒を飲む人、子どもを連れて歩く人。華やかな場面だけを見れば、祭りとは「楽しむためのイベント」に見える。

 

しかし、その裏側には、準備をする人たちがいる。

 

会場を設営する人、交通整理をする人、神輿を担ぐ人、出店を管理する人、掃除をする人、警備をする人、関係者との調整をする人。表にはほとんど姿を見せない人たちも含めれば、一つの祭りを開催するために、実に多くの人が動いている。

 

では、なぜ彼らはそこまでして祭りを支えるのであろうか。

 

もちろん、「昔からそうしているから」という答えはある。しかし、それだけでは説明しきれない。

 

なぜなら、祭りの運営には、時間も体力も必要だからである。場合によっては仕事を休み、家族との時間を削り、暑い中で準備をし、問題が起きれば責任まで負わなければならない。それでも毎年、誰かがその役割を引き受ける。

 

そこには、人間の非常に深い心理があるのだと思う。

 

人間は、完全に一人では生きていけない。

 

自分がどこに属しているのか。誰とつながっているのか。自分がこの地域でどのような存在なのか。こうした「自分の居場所」を、人は意外なほど大切にしている。

 

祭りは、その「自分はここにいる」という感覚を確認する場でもある。

 

普段は会社員として働いている人が、祭りの日には町内会の役員になる。普段は目立たない人が、神輿を担ぐ。若い人が年長者から祭りの作法を教わる。子どもたちは大人たちの姿を見ながら、少しずつ地域の一員になっていく。

 

そこでは、普段の肩書とは違う「地域の中の自分」が生まれる。

 

そして、祭りを運営する側に回ることで、人は「自分もこの地域をつくっている」という感覚を持つことができる。

 

これは非常に大きい。

 

人間は、誰かから与えられるだけの存在よりも、自分が何かを支えていると感じられるときに、強い充実感を得ることがある。

 

祭りを見に来る人は、祭りを楽しむ。

 

しかし、祭りをつくる人には、「自分たちがこの祭りを成立させた」という別の喜びがある。

 

そこには、目に見える報酬とは違う報酬が存在しているのである。

 

さらに重要なのが「継承」である。

 

祭りには、何十年、何百年と続いているものもある。その長い時間の中で、過去の人々も同じように準備し、汗を流し、次の世代へと引き継いできた。

 

運営する側に立つ人は、その歴史の「途中」に立つことになる。

 

自分たちが始めたわけではない。しかし、自分たちが終わらせるわけにもいかない。

 

「自分たちの代で途切れさせたくない」

 

その思いは、単なる義務感だけではないだろう。

 

それは、自分が過去と未来をつなぐ一人になるという感覚である。

 

自分が生まれる前から存在していたものを受け取り、自分がいなくなった後の世代へ渡していく。

 

考えてみれば、これは人間にしかできない非常に不思議な行為である。

 

もちろん、すべての人が祭りを好きだから参加しているわけではないだろう。「仕方なく役員になった」という人もいる。「今年は大変だった」と愚痴をこぼす人もいる。

 

しかし、その人たちでさえ、祭りが終われば「また来年も」となることがある。

 

なぜなら、面倒だからこそ、そこに人間関係が生まれるからである。

 

一緒に準備をし、一緒に汗をかき、一緒に問題を解決し、一緒に酒を飲む。その経験が、人と人との距離を縮めていく。

 

祭りは、単なる娯楽ではない。

 

人間関係を再確認する装置であり、世代をつなぐ装置であり、地域に恩返しする場であり共同体を維持する装置でもあるのだ。

 

だからこそ、祭りの本当の主役は、華やかな神輿でも、賑やかな屋台でも、そこに集まる見物客だけでもない。

 

その裏側で、誰かのために、地域のために、そして次の世代のために、黙々と準備をしている人たちなのではないだろうか。

 

人間は、楽しむだけでは満たされない。

 

自分が何かを支え、自分の存在が誰かの役に立ち、自分が受け取ったものに感謝を込めて、次へ渡していく。

 

そんな「役割」を持ったとき、人は自分が社会の一員であることを実感する。

 

祭りが長い年月を超えて残っているのは、伝統そのものに生命力があるからではない。

 

毎年、「今年もやろう」と思う人がいるからである。

 

そして、その人たちがいる限り、祭りは単なる過去の遺産ではなく、現在を生きる人間たちによって、毎年新しく生まれ続けるのである。

 

 

 

 

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