フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
人は、なぜ登山家を目指すのか――山の頂上で、人は何を見つけようとしているのか
山に登ることは、効率だけを考えれば不思議な行為である。
苦労して坂道を登り、重い荷物を背負い、寒さや暑さに耐え、時には危険を冒してまで高い場所を目指す。頂上に着いたからといって、生活が便利になるわけでもない。
それでも、人は山に登る。
そして、その中には「いつか本格的な登山家になりたい」と考える人もいる。
では、人はなぜ登山家を目指すのだろうか。
単純に「山が好きだから」だけでは説明できない。そこには、人間が人生に何を求めるのかという、かなり深い問題が隠れている。
まず考えられるのは、自分の限界を確かめたいという欲求である。
日常生活では、自分がどこまでできる人間なのかを、はっきり知ることは難しい。
仕事をして、家族と暮らし、決められた時間に起き、決められたことをこなしていく。その中では、「自分は本当はどこまでできるのか」という問いに、なかなか答えが出ない。
ところが山では、ごまかしがきかない。
体力がなければ歩けない。判断を間違えれば危険につながる。苦しくなれば、それでも進むのか、引き返すのかを自分で決めなければならない。
だから山に登ることは、自然との戦いであると同時に、自分自身との対話でもある。
「自分はここまで頑張れるのか」
「本当にここまで行きたいのか」
「危険を冒してまで、頂上に行く価値があるのか」
そうした問いを、一歩一歩歩きながら自分に投げかける。
そこに魅力を感じる人がいるのだろう。
しかし、登山家を目指す理由は、自己鍛錬だけでもない。
むしろ、日常から離れたいという気持ちも大きいのではないだろうか。
現代社会では、常に誰かとつながっている。
仕事の連絡が入り、ニュースが流れ、スマートフォンには次々と情報が届く。人間関係や社会的な立場から完全に自由になることも難しい。
ところが山に入ると、そうしたものが少しずつ遠ざかっていく。
山では、会社での肩書きも、社会的な評価も関係ない。
目の前にあるのは、天候と地形と自分の体だけである。
それは、人によっては大きな解放感になる。
「誰かに認められるためではなく、自分自身のために生きている」そう感じられる時間を求めて、山に向かう人もいるのだろう。
そして、山にはもう一つ、人間の日常ではなかなか得られないものがある。
自然に対する畏敬の念である。
人間は科学や技術によって、自然をかなり理解できるようになった。しかし、山は人間の都合に合わせてくれない。
天候が急変することもある。
強風が吹くこともある。
雪が降れば道が分からなくなることもある。
そこでは、人間は自然を支配する存在ではない。
むしろ、大きな自然の中に生きる小さな存在であることを思い知らされる。
それを恐れる人もいるだろう。
しかし、それを魅力だと感じる人もいる。
自分よりはるかに大きなものの前に立つことで、日常生活で抱えていた悩みが小さく感じられることもある。
また、登山家を目指す人の中には、「結果」よりも「過程」に価値を感じる人もいる。
頂上に立った瞬間だけが登山の価値ではない。
計画を立てる。
装備を準備する。
天候を読む。
一歩ずつ歩く。
仲間と支え合う。
そして、時には途中で引き返す。
実は「登頂すること」よりも、そこへ向かう過程そのものに人生の意味を感じている人もいるのではないだろうか。
ここには、人生そのものとの共通点がある。
人生にも、「ここまで来れば完成」という明確な頂上はない。
それでも人は、何かを目指して歩いていく。
そして、時には予定を変更し、引き返し、別の道を選ぶ。
登山家を目指す人は、山を通してその人生の感覚を強く味わっているのかもしれない。
もちろん、すべての人が山に魅力を感じるわけではない。
「なぜ、わざわざ苦しい思いをして山に登るのか」と思う人もいるだろう。
それも当然である。
人によっては、家で本を読むことに幸福を感じるかもしれない。
自由な時間を大切にする人もいる。
仕事に打ち込む人もいれば、何もせず静かに暮らすことを望む人もいる。
どの生き方が優れているという話ではない。
大切なのは、自分にとって何が「生きている」と感じられるのかということである。
登山家を目指す人は、山の頂上に何かを見つけようとしているのかもしれない。
それは、達成感かもしれない。
自由かもしれない。
自分の限界かもしれない。
自然への畏敬かもしれない。
あるいは、社会から少し離れて、自分自身と静かに向き合う時間なのかもしれない。
しかし、山に登らない人生にも、同じだけの価値がある。
人間の人生に、本当の意味での「正しい頂上」は一つではない。
高い山を目指す人もいれば、穏やかな平地を歩く人もいる。
大切なのは、他人が決めた頂上ではなく、自分はどこへ向かって歩きたいのかを、自分自身で考えることなのではないだろうか。
そう考えると、「人は、なぜ登山家を目指すのか」という問いは、やがて「自分は、人生のどこを目指しているのか」という問いに変わっていく。
そして、その答えは人によって違っていい。
山に登る人にも、登らない人にも、それぞれの人生がある。
人生とは、必ずしも高い場所を目指すことではない。
自分が大切だと思える場所へ、自分の歩幅で歩いていくこと。
それもまた、一つの人生なのだと思う。
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