フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
介護現場の悲鳴と、社会が目を背ける構造的限界——「個人の暴走」で終わらせていいのか
昨日のニュースを見て、胸が締め付けられる思いがした。
過去に多数の被害者を出した介護施設で、再び職員が利用者を殴打する事件が起きたという。
どんな理由があろうとも、介護の現場で暴力を振るうことは断じて許されない。
被害に遭われた方の無念さと恐怖を思えば、厳正な処罰と再発防止は当然の義務である。
しかし、同時に私たちは問わなければならない。
悲痛な不祥事が報じられるたびに「個人の資質」や「倫理観の欠如」という言葉で片付け、本質から目を背け続けてはいないだろうか。
暴力を決して肯定することなく、同時に現場で働く人々が上げる「理不尽な叫び」に耳を澄ませる必要がある。
限界を迎えている「現場の悲鳴」
介護の仕事は、人の尊厳と生命を直接支える尊い労働だ。
しかし、その現場はあまりにも過酷な構造的課題を抱えている。
第一に、慢性的な人手不足による過酷を極める業務負担だ。
本来であれば複数人で対応すべきケアを一人で担わざるを得ず、心身の緊張が常に張り詰めた状態が続く。
第二に、被介護者やその家族からの暴言・暴力への対応である。
認知症の周辺症状として現れる行動であっても、受け止める職員の心身は確実に削られていく。
「介護のプロなのだから耐えるのが当たり前」という無理解が、職員を孤立へと追い込む。
そして第三に、責任の重さに見合わない待遇と社会的評価だ。
命を預かる重責を果たしながらも、十分な報酬や労いを得られない実態が、働く人の自尊心を打ち砕いていく。
「密室」が生み出す負の連鎖
施設という閉ざされた空間は、ストレスを抱えた職員をより一層追い詰める。
人手不足により感情を吐き出す場も、助けを求める余裕もなくなる。
極限状態に置かれた人間が孤立したとき、本来守るべき相手に対して牙を剥いてしまう——そんな痛ましい負の連鎖が、全国各地の現場で静かに進行しているのではないか。
職員の暴走を防ぐ努力はもちろん必要だ。
しかし、彼らを極限状態まで放置しておきながら、問題が起きた時だけ「個人の悪」として切り捨てる構造そのものが、最大の悲劇と言える。
現場の善意だけに頼る介護からの脱却
この理不尽な構造を打開するためには、現場の忍耐や善意に頼るケアからの脱却が不可欠だ。
具体的には、監視目的ではなく職員を守るためのテクノロジー(センサーやカメラ)の導入による密室化の防止と負担軽減が挙げられる。
さらに、ハラスメントから職員を組織的にガードする体制整備や、メンタルケアの充実も急務だ。
もちろん、介護報酬の抜本的な見直しを含めた制度面の改革も欠かせない。
介護の現場は、将来の自分や大切な家族が必ずお世話になる場所である。
働く人の尊厳が守られない場所に、利用者の尊厳が守られる未来はない。
痛ましい事件を「一人の悪人」の物語で終わりにせず、社会全体の問題として構造的課題に向き合うこと。
それこそが、繰り返される悲劇を止める唯一の道ではないだろうか。
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