フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
車を運転すると性格が変わる人――ハンドルを握った瞬間、人はなぜ別人になるのか。
「普段は、とても穏やかな人なのに、車を運転すると怖い人になる。」
そんな人が、身近に一人くらいはいないだろうか。
普段は誰に対しても丁寧で、多少のことでは怒らない。ところが車に乗った瞬間、前の車に文句を言い、信号が変わるのが遅ければ苛立ち、割り込まれれば激しく怒る。
場合によっては、クラクションを鳴らしたり、車間距離を詰めたり、乱暴な運転をしたりする。
まるで別人である。
しかし、これは本当に「性格が変わった」のだろうか。
車を運転しているときに現れるのは、別の人格というより、普段なら社会生活の中で抑えている感情が、表に出やすくなった姿なのではないかと思うのである。
人間は、普段の生活ではさまざまなものに縛られている。
会社では上司に気を遣う。職場では同僚に気を遣う。家族にも気を遣う。店員にも最低限の礼儀を守る。
つまり、人間は社会の中で生きるために、自分の感情をある程度コントロールしている。
ところが車に乗ると、その環境が少し変わる。
相手の顔が見えない。
自分の姿も相手から見えにくい。
そして、自分と相手の間には車という「壁」がある。
この距離と匿名性が、人間の心理を変える。
目の前にいる車を「一人の人間」ではなく、「邪魔な車」として認識してしまうのである。
たとえば、前の車が少し遅かったとする。
運転している人の顔が見えていれば、「何か事情があるのかもしれない」と思えるかもしれない。
しかし車だけを見ていると、「なんでこんなに遅いんだ」となる。
人間は、相手を人間として認識しなくなった瞬間、感情的になりやすい。
これは運転に限った話ではない。
インターネットでも同じことが起こる。
画面の向こう側にいる人間の顔が見えないと、普段なら口にしないような強い言葉を書いてしまう人がいる。
つまり、車もスマートフォンも、ある意味では「人間と人間の間にある壁」なのである。
そして、もう一つ重要なのが、「自分は急いでいる」という感覚である。
車に乗ると、人は目的地に向かって移動している。
「あと10分で着きたい」
「この信号を渡りたい」
「前の車が遅い」
「後ろの車が近い」
このように、時間と目的地を意識することで、普段よりも心理的な余裕がなくなる。
すると、ほんの小さな出来事まで「邪魔をされた」と感じるようになる。
ここが非常に面白いところである。
実際には誰も自分の人生を邪魔しているわけではない。
前の車が遅いのも、信号に引っかかるのも、道路が混んでいるのも、自分に対する攻撃ではない。
それなのに、人間の脳はそれを「自分の思い通りにならないこと」として受け取ってしまう。
そして怒る。
考えてみれば、これは車だけの問題ではない。
人生も同じである。
自分の思い通りにならないことが起きたとき、人は簡単に不機嫌になる。
「なぜ自分だけ」
「どうしてあの人は」
「もっとこうすればいいのに」
そう考え始める。
車の運転中に現れる怒りは、実はその人の「人生に対する反応の仕方」を小さな空間の中で見せているだけなのかもしれない。
だから私は、「運転すると性格が変わる人」を見たとき、その人を単純に「怖い人」と決めつける必要はないと思っている。
むしろ、
「この人は、自分の思い通りにならない状況に、どう反応する人なのだろう」
と考えてみると面白い。
そして、これは自分自身にも向けるべき問いである。
自分は運転中、どんな人間になっているだろうか。
前の車が遅いと腹が立つだろうか。
割り込まれると許せなくなるだろうか。
後ろから煽られると、意地になってしまうだろうか。
もしそうなら、それは「運転中だけの問題」ではないかもしれない。
自分の中にある「自分の思い通りにならないことへの弱さ」が、ハンドルを握った瞬間に表面化している可能性がある。
逆に、運転中でも穏やかでいられる人は、単に運転が上手いだけではない。
「世の中は自分の思い通りにはならない」ということを、どこかで理解しているのかもしれない。
赤信号なら待つ。
渋滞なら諦める。
前の車が遅ければ距離を取る。
割り込まれても、必要以上に反応しない。
これは、ある意味では「人生の練習」でもある。
車という小さな密室の中で、自分の感情をどう扱うのか。
怒りを感じること自体は悪くない。
人間なのだから、腹が立つこともある。
大切なのは、怒りを感じたあと、その怒りに自分の行動を支配させるかどうかである。
ハンドルを握った瞬間に別人になる人。
もしかすると、その人は性格が変わったのではない。
普段は隠れている「もう一人の自分」が、少しだけ顔を出しているのである。
だからこそ、運転は面白い。
車を運転しているつもりが、実は自分自身を運転している。
そして人生において本当に難しいのは、車を思い通りに動かすことではない。
自分の感情を、自分で運転することなのかもしれない。
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