フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
年金受給年齢の議論を一刀両断――「いつ死ぬか分からない」からこそ考えるべきこと
「年金は、いつからもらうのが一番得なのか」
この問題は、老後を考える人にとって非常に気になるテーマである。
SNSや動画コンテンツを見れば、「年金は早くもらったほうがいい」という人もいれば、「長生きするなら、できるだけ繰り下げたほうがいい」という人もいる。
どちらにも、それなりの根拠がある。
早く受け取るほど、長い期間にわたって年金を受け取ることができる。
一方、繰り下げれば、受給開始後の年金額を増やすことができる。
現在の公的年金制度では、老齢年金は原則65歳から受給でき、一定の範囲で繰上げ・繰下げを選択できる。繰上げ受給では、受給開始を早めるほど年金額が減額され、反対に繰下げ受給では、遅らせるほど年金額が増額される仕組みになっている。
だからこそ、多くの人が「結局、何歳からもらうのが得なのか」と考え計算する。
しかし、私はこの問いには、一つ大きな問題があると思う。
それは、誰にも自分の死亡年齢を知ることができないということである。
ここが、年金問題を考えるうえで最も重要なポイントではないだろうか。
たとえば、「80歳まで生きる」と分かっているのであれば、年金を何歳から受け取ると有利なのかをかなり正確に計算できる。
「90歳まで生きる」と分かっているなら、さらに計算しやすい。
しかし、現実にはそんなことは誰にも分からない。
70歳で亡くなるかもしれない。
80歳かもしれない。
90歳まで生きるかもしれない。
100歳を超えるかもしれない。
そして、明日という可能性さえ、完全には否定できない。
つまり、年金の受給開始年齢を決めるということは、実は未来の自分の寿命という、誰にも分からないものを相手に意思決定することなのである。
ここで重要なのは、「長生きする確率」を一生懸命計算することではない。
もちろん平均寿命や平均余命などの統計は、人生設計を考えるうえでは非常に役に立つ。
しかし、統計上の平均寿命が80歳だからといって、自分が80歳で亡くなるわけではない。
平均寿命が82歳なら、自分も82歳まで生きるわけではない。
平均は、自分の人生の予定表ではないのだ。
ここを忘れてはいけない。
だから、「私は長生きすると思うから繰り下げる」「自分は早死にするかもしれないから早くもらう」という判断にも、実は大きな不確実性が残る。
未来は分からない。
だからこそ、年金を「寿命当てゲーム」にしてはいけないのである。
もっと重要なのは、自分がまだ元気に動ける時期をどう過ごすかという問題だ。
仮に65歳から70歳までの5年間を考えてみよう。
その5年間には、毎年365日ある。
旅行に行くこともできる。
趣味を楽しむこともできる。
家族や友人と時間を過ごすこともできる。
新しいことを学ぶこともできる。
そして、何より、自分自身の身体がまだ元気である可能性が高い。
ところが、70歳から75歳、75歳から80歳と年齢を重ねていけば、体力や健康状態が衰える可能性が高くなる。
もちろん、80歳を過ぎても元気な人はたくさんいる。
しかし、未来の自分が現在と同じ身体能力を持っている保証はない。
だからこそ、お金には「金額」だけではなく、「いつ使えるか」という価値がある。
100万円を90歳の自分が持っていることと、65歳の自分が持っていることでは、その100万円の意味が同じとは限らない。
65歳なら、その100万円で旅行に行けるかもしれない。
70歳なら、まだできることがたくさんあるかもしれない。
80歳なら、使い道そのものが限られるかもしれない。
つまり、人生においては、
「いくら持っているか」だけではなく、「いつ持っているか」も重要なのである。
だから私は、「年金を早くもらうこと」と「年金を繰り下げること」のどちらが正しいのかという議論そのものを、少し違う角度から見たほうがいいのではと思う。
年金は、最大利益を追求するための金融商品ではない。
不確実な人生を支えるための仕組みなのである。
長生きしたときに毎月しっかりと一定の収入が入ってくることには、大きな安心感がある。
だから、資産に余裕があり、今すぐ年金を必要としない人なら、繰り下げによって将来の終身収入を厚くするという考え方もある。
反対に、今の生活を豊かにするために年金を必要としている人なら、早く受け取るという選択にも意味がある。
どちらも間違いではない。
問題は、「どちらが得か」ではなく、「自分は不確実な未来に対して、どのようにお金を配置したいのか」なのである。
そして、ここでさらに考えておきたいことがある。
それは、「死ぬまでにお金を使い切る」という考え方も、必ずしも悪いことではないということである。
もちろん、老後の生活に必要なお金まで使ってしまうのは危険である。
しかし、「できるだけ多く残すこと」だけが人生の正解でもない。
自分が生きている間に、自分が価値を感じることにお金を使う。
家族との時間に使う。
旅行に使う。
学びに使う。
好きなことに使う。
誰かを助けるために使う。
そうしてお金を「人生の経験」に変えていく。
それも、お金の大切な役割ではないだろうか。
人は、「いつ死ぬか分からない」からこそ、未来だけを見て生きることもできない。
かといって、今日だけを考えてお金を使い切るわけにもいかない。
必要なのは、その間にあるバランスである。
今の自分のためのお金。
少し先の自分のためのお金。
そして、長生きした自分のためのお金。
この三つをどう配分するか。
そこに、自分なりの答えを見つければいいのである。
年金について考えるとき、「何歳からもらえば一番得か」という質問をしている限り、どうしても答えは一つに決まらない。
なぜなら、自分がいつ死ぬか誰にも分からないからである。
しかし、それは悲観すべきことではない。
むしろ、人生には未来を完全には予測できないからこそ、今という時間に価値がある。
明日の自分が生きている保証はない。
だからといって、明日死ぬつもりで生きる必要もない。
今日を大切にしながら、長生きする可能性にも備える。
これが、人生とお金を考えるうえで、最も自然な姿勢なのではないだろうか。
年金受給年齢についても同じである。
早くもらうのか。
遅くもらうのか。
その答えは、人によって違っていい。
大切なのは、「得か損か」という他人の答えを探すことではない。
自分は、残された時間をどう生きたいのか。
そして、
まだ見ぬ未来の自分に、どれだけのお金を残しておきたいのか。
この二つを、自分自身に問いかけることである。
年金の受給開始年齢を決めるということは、単なるお金の問題ではない。
それは、
「いつ死ぬか分からない人生を、限られたお金と時間でどう生きるのか」
を考えることなのである。
そう考えれば、「65歳が得か、70歳が得か」という議論だけに振り回される必要はない。
人生には、損得計算だけでは測れない価値がある。
そして、お金は人生そのものではない。
人生をより自分らしく生きるための道具なのである。
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