フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
人は、なぜ裁判官を目指すのか。――正しさを問い続ける人生への選択
人は人生の中で、何度も「正しいとは何か」という問いに向き合う。
友人との関係、仕事での判断、家族との選択など、私たちは日常の小さな場面でも、無意識のうちに善悪や公平について考えている。
しかし、その問いを人生の中心に置き、社会の中で最も重い判断を担う道を選ぶ人たちがいる。
それが裁判官である。
では、なぜ人は裁判官を目指すのだろうか。
もちろん理由は一つではない。
「法律に興味があったから」という人もいるだろう。
「社会の公平を守る仕事がしたい」と考える人もいるだろう。
しかし、その根底には、単なる職業選択を超えた、ある種の人生観が存在しているように思う。
裁判官という仕事は、人の人生に深く関わる。
時には、誰かの財産を左右する判断をすることもある。
時には、罪を犯した人に対して刑罰を決めることもある。
そこには常に、「自分の判断が誰かの人生に影響を与える」という重さがある。
その責任を引き受けようとする人は、どのような思いを持っているのだろうか。
一つには、「感情ではなく、冷静な基準によって物事を見る力を身につけたい」という思いがあるのかもしれない。
人間はどうしても、自分の経験や感情によって物事を判断してしまう。
同じ出来事でも、立場が変われば見え方は大きく変わる。
被害を受けた側から見れば許しがたいことでも、加害者側にはそこに至る事情や背景がある場合もある。
裁判官は、その複雑な人間社会の中で、感情だけにも流されず、冷たく数字だけを見るのでもなく、法律という基準を軸に判断しなければならない。
そこには、「人間を深く理解したい」という思いもあるのではないだろうか。
裁判とは、単純な善人と悪人の対決ではない。
一つの事件の背後には、それぞれの人生がある。
育った環境、家庭事情、本人の性格、周囲との関係、偶然の出来事。
もちろん、どのような事情があっても責任を免れるわけではない。
しかし、人間を理解しようとしなければ、本当の意味で公平な判断には近づけない。
だからこそ、裁判官を目指す人の中には、「人間とは何か」を考え続けたいという探究心を持つ人もいるのだと思う。
一方で、裁判官を志す理由は「正義感」だけではないかもしれない。
社会には、さまざまな価値観を持つ人がいる。
政治家のように社会を動かしたい人もいる。
企業経営者のように新しい価値を生み出したい人もいる。
研究者のように真理を追求したい人もいる。
その中で裁判官は、自らが前面に立って社会を変えるのではなく、社会の中にある対立や問題に向き合い、一定の基準を示す役割を担う。
そこに魅力を感じる人もいるだろう。
「目立つことより、静かに社会を支えることに価値を感じる」
「誰かの意見に流されず、自分自身で考え抜く人生を送りたい」
そう考える人にとって、裁判官という道は大きな意味を持つのかもしれない。
しかし、裁判官という道だけが、正しさや公平を追求する人生ではない。
社会を良くする方法は一つではない。
教師として人を育てることもできる。
医師として命を守ることもできる。
会社員として誠実に仕事をすることもできる。
家庭の中で周囲を支えることも、立派な社会への貢献である。
大切なのは、どの職業に就くかだけではなく、自分が何を大切にして生きるのかということである。
裁判官を目指す人は、「正しさとは何か」「人間とは何か」という問いを人生の中心に置いた人なのかもしれない。
しかし、その問いを持ちながら別の道を歩む人生にも、同じように価値がある。
結局、人が選ぶ道とは、その人が何を信じ、何を大切にして生きたいかの表れなのだ。
裁判官という選択を見ることで、私たちは改めて自分自身に問いかけることができる。
「私は人生の中で、何を守りたいと思っているのだろうか」
「私は、どのような価値を社会に残したいのだろうか」
その答えは、人それぞれ違ってよい。
大切なのは、他人の選んだ道を評価することではなく、自分自身の人生において、納得できる道を歩むことである。
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