フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、独り言などをゆる~く書き綴る。
何の専門家でもない私が経済的自由を得て、人生のこと、世の中のこと、
幸せについてなど、一般庶民の目線で考える。
世間の常識を疑うことから、知的探究は始まる
当たり前だと思っていることを、一度立ち止まって考えてみる
私たちは、日々さまざまな常識の中で生活している。
学校では勉強することが当たり前であり、社会に出れば働くことが当たり前とされる。働いて収入を得て、家を持ち、家族を養い、老後に備えて貯蓄する。それが一般的な人生設計として語られることも多い。
もちろん、こうした考え方には合理的な部分もある。多くの人が実践し、社会の仕組みもそれを前提として成り立っている。
しかし、ここで一つ考えてみたい。
それらは、本当にすべての人にとって正しいことなのだろうか。
世間で常識とされているからといって、それが必ずしも自分にとって最善であるとは限らない。
私たちは、知らず知らずのうちに、周囲の価値観を自分の価値観として受け入れてしまうことがある。そして、そのこと自体に疑問を持つ機会は意外と少ない。
だからこそ、ときには立ち止まり、当たり前だと思っていることを改めて考えてみる必要がある。
知的探究は、難しい専門知識を学ぶことだけではない。身近な常識に疑問を持つことも、立派な知的探究なのである。
常識は、必ずしも普遍的な正解ではない
そもそも、常識とは何だろうか。
一般的には、多くの人が共通して持っている知識や価値観、社会生活を営むうえで当然と考えられている考え方などを指す。
しかし、常識は時代や社会環境によって変化する。
かつては当たり前だったことが、現在では通用しなくなっている例は数多くある。働き方、家族のあり方、教育、男女の役割など、社会の変化とともに常識も変わってきた。
つまり、常識とは絶対的な正解ではなく、その時代や社会の中で形成されてきた一つの共通認識にすぎない場合もあるのだ。
それにもかかわらず、私たちは常識という言葉に対して、どこか絶対的な正しさを感じてしまう。
「みんながそうしているから」
「昔からそう決まっているから」
「普通はそうするものだから」
こうした理由だけで、自分の行動や判断を決めてしまうことはないだろうか。
もちろん、先人の知恵や社会の共通認識を尊重することは大切である。何でも疑えばよいという話ではない。
大切なのは、常識を無条件に受け入れるのではなく、その背景や根拠を考えてみることだ。
お金、仕事、成功、幸せにも自分なりの答えを持つ
世間の常識を疑うことが、特に重要になる分野がある。
それは、お金、仕事、成功、そして幸せである。
例えば、お金について考えてみよう。
世間では、収入が多いことや資産が大きいことが、豊かさの象徴として扱われることがある。
しかし、本当にそうだろうか。
十分な資産を持っていても、毎日忙しく、自由な時間がなく、将来への不安ばかりを抱えている人もいる。一方で、収入や資産がそれほど多くなくても、自分の生活に満足し、穏やかな日々を送っている人もいる。
仕事についても同じである。
社会的な地位や高い収入を得ることが、必ずしも人生の充実につながるとは限らない。自分にとって大切な時間を確保するために、あえて働き方を変えるという選択もある。
成功についても、世間が考える成功と、自分が望む成功は必ずしも一致しない。
そして、幸せについては、さらに考える余地がある。
世間では、何かを手に入れること、目標を達成すること、他人から認められることが幸せにつながると考えられがちである。
しかし、幸せとは本当に何かを手に入れた先にあるものなのだろうか。
今ある生活の中に、すでに幸せが存在している可能性はないだろうか。
こうして一つひとつ考えてみると、世間の常識と自分自身の価値観との間には、意外な違いがあることに気づく。
その違いを認識することが、自分なりの判断基準をつくる第一歩になるのである。
疑うことは、否定することではない
ここで誤解してはならないことがある。
常識を疑うということは、世間の考え方を否定したり、他人と違うことを無理に選んだりすることではない。
常識には、長い経験や多くの人の知恵から生まれたものもある。合理的であり、自分にとっても有益な考え方であれば、積極的に取り入れればよい。
大切なのは、受け入れるにしても、拒むにしても、自分自身で考えたうえで判断することだ。
そのためには、物事に対して次のような問いを持ってみるとよい。
なぜ、それが正しいとされているのだろうか。
その考え方には、どのような根拠があるのだろうか。
自分の置かれている環境や価値観にも、本当に当てはまるのだろうか。
別の考え方や選択肢はないのだろうか。
こうした問いを重ねることで、物事を表面的に受け取るのではなく、その本質を考える習慣が身についていく。
そして、自分なりの答えを導き出す過程そのものが、知的探究の楽しさでもある。
知的探究に終わりはない
知的探究という言葉を聞くと、専門的な研究や高度な学問を思い浮かべる人もいるかもしれない。
しかし、知的探究は決して特別な人だけのものではない。
日常生活の中で疑問を持ち、調べ、考え、自分なりの答えを見つけていく。その繰り返しが知的探究なのである。
そして、一度導き出した答えが、いつまでも正しいとは限らない。
新しい知識を得たり、経験を重ねたりすることで、以前の考え方が変わることもあるだろう。
それでよいのである。
むしろ、自分の考え方を柔軟に見直せることこそ、知的探究を続けるうえで大切な姿勢だと思う。
知ることによって世界の見え方が変わり、考えることによって自分自身への理解も深まっていく。
そこには、他人と競争する必要も、誰かに評価される必要もない。
自分の知的好奇心に従って、自由に考え、想像し、思いを巡らせる。それだけでも、人生は十分に豊かなものになるのではないだろうか。
自分の頭で考える自由を大切にしたい
世間の常識に従うことは簡単である。周囲と同じ考え方をしていれば、迷うことも少なく、安心感も得られる。
しかし、それだけでは、自分自身の価値観や判断基準を深く考える機会を失ってしまうかもしれない。
世間の常識を知ることは大切だ。
そのうえで、本当に自分に必要なものなのか、自分の人生にふさわしいものなのかを考えてみる。
そして、自分なりの答えを見つけていく。
他人の基準ではなく、自分の基準で物事を判断できるようになれば、世間の評価や周囲の意見に必要以上に振り回されることも少なくなるだろう。
人生には、誰にでも当てはまる唯一の正解などない。
だからこそ、自分の頭で考えることには大きな意味がある。
私は、考えることは最高の自由だと思っている。
知ること、考えること、想像すること。そして、自分なりの答えを見つけること。
それは、年齢を重ねても続けられる、終わりのない楽しみである。
世間の常識を疑うことから、知的探究は始まる。
そして、その探究の先にあるのは、他人の価値観に左右されることなく、自分らしい人生を歩むための確かな判断基準なのではないだろうか。
