フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、
ふと浮かんだ疑問などをゆる~く書き綴る
何の専門家でもない私が経済的・時間的・人間関係の自由を得て、
人生のこと、世の中のこと、幸せについてなど、
一般庶民の目線で考える
資本主義の世の中において「労働者だけ」で生きるという選択の限界
資本主義社会に生きる私たちは、日々「働くこと」を前提に人生を組み立てている。
学校を卒業し、会社に就職し、賃金を得て生活する。
この流れはあまりにも自然で、多くの人が疑問を持つことすらない。
しかし、「資本主義の世の中において、労働者だけでいる人生」とは、どのような意味を持つのか考えてみよう。
そもそも資本主義とは、資本を持つ者がそれを使って利益を生み出し、経済が回っていく仕組みである。
企業は資本を投下し、労働力を雇い、商品やサービスを生み、その対価として利益を得る。
ここで重要なのは、労働そのものよりも、資本が優位に立つ構造であるという点だ。
労働者は、自らの時間と労力を切り売りすることで賃金を得る。
働かなければ収入は止まり、年齢や体力、景気の影響も直接受ける。
一方で、資本は持っているだけで増殖する可能性を秘めている。
配当、不動産収入、事業収益など、資本は労働者が寝ている間にも働き続ける。
この非対称性こそが、資本主義の本質である。
では、労働者だけで生きる人生は不幸なのだろうか。
いや必ずしもそうではない。
労働を通じて社会とつながり、誰かの役に立っている実感を得ることは、人間にとって大きな幸福の源である。
安定した給与や仲間との関係性、達成感は、金銭では測れない価値を持つ。
しかし問題は、「労働者であることしか選択肢がない」と思い込んでしまう点にある。
資本主義社会において、労働者であることはスタート地点ではあっても、ゴールとしてよいのだろうか?
本来は、労働を通じて得た賃金の余剰をどう使うか、という視点が必要なのである。
多くの人が幸せを実感できる生き方とは、労働と資本のどちらかに極端に偏らないことだと考えられる。
労働を完全に否定し、資本収入だけを追い求めると、社会との接点を失い、空虚さを感じることもある。
一方で、労働収入だけに依存すると、将来への不安や消耗から一生逃れられない。
知恵として重要なのは、「自分も少しずつ資本側に立つ」という発想である。
大それた起業や巨額投資である必要はない。
少額の積立投資、スキルを活かした副収入、小さな事業への参加など、労働以外の収入源を持つことで、人生の選択肢は確実に広がる。
資本主義の世の中で幸せに生きるとは、資本主義の世の中に振り回されることではない。
資本主義の仕組みを理解し、その中で自分なりの生き方のバランスを取ることだ。
労働を尊びつつ、資本の力も味方につける。
その視点を持てたとき、人生は
「働き続けなければならないもの」から、
「選び取れるもの」へと変わっていくのである。
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