フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、
ふと浮かんだ疑問などをゆる~く書き綴る
何の専門家でもない私が経済的・時間的・人間関係の自由を得て、
人生のこと、世の中のこと、幸せについてなど、
一般庶民の目線で考える
過去を後悔しないために──「選ばなかった人生」との向き合い方
人生を振り返ったとき、誰の心にも必ず浮かぶ問いがある。
「あのとき、別の選択をしていたらどうなっていただろうか」という問いである。
若い頃は、目の前の選択に必死で、振り返る余裕などない。
だが、ある程度の年齢を重ね、生活が安定し、時間に追われなくなったとき、ふと過去が静かに語りかけてくる。
今の自分が穏やかであればあるほど、「選ばなかった人生」の輪郭は、かえってくっきりと浮かび上がる。
すでに経済的な不安はない。
贅沢を望む気持ちも薄れた。
日々は自由で、心も静かだ。
それでも、心の奥に小さな違和感が残ることがある。
それは不満ではない。
後悔とも少し違う。
ただ、「このままで良かったのか」という、答えを求めない問いである。
多くの人は、過去を後悔する理由を「失敗」に求める。
だが実際には、後悔の正体は失敗ではなく、「選択したこと」そのものにある。
人生は選択の連続であり、何かを選ぶということは、同時に無数の可能性を手放す行為だからだ。
成功した人生であっても、選ばなかった道は必ず残る。
重要なのは、「選ばなかった人生」を否定しないことである。
あの道を選んでいたら、もっと社会と深く関われたかもしれない。
別の仕事をしていれば、違う評価や役割を得ていたかもしれない。
そうした想像は、事実ではないが、感情としては確かに存在する。
しかし忘れてはならないのは、過去の自分は、その時点で最善だと信じた選択をしているという事実である。
知識も経験も、今とは比べものにならない中で、それでも必死に考え、決断した。
その積み重ねが、今の穏やかな生活を形作っている。
「もしも」は、今の自分だから考えられる贅沢な思考である。
当時の自分に、今の視点を求めるのは酷というものだ。
また、「選ばなかった人生」は、完全に失われたわけではない。
形を変え、縮小され、別のかたちで今から触れることもできる。
働き方を少し変えること、人との関わりを意識的に増やすこと、小さな責任を引き受けること。
人生は一本道ではなく、いつからでも枝道に足を踏み入れられる。
過去を後悔しないということは、過去を美化することではない。
「あれで良かった」と無理に言い聞かせることでもない。
ただ、「あの選択があったから今がある」と、静かに受け止めることだ。
そして今、自分が感じている小さな物足りなさや違和感は、人生が終わった証ではない。むしろ、まだ関わりたい、まだ試したいという、健全な欲求の表れである。
それに気づける感性を持っていること自体、人生が豊かである証拠だ。
選ばなかった人生に、答えはない。
だが、向き合い方は選べる。
過去を裁くのではなく、過去に感謝する。
未来を焦るのではなく、今に少しだけ余白をつくる。
それだけで、人は後悔から解放される。
そしてその静かな肯定の先にこそ、本当に自分らしい次の一歩があるはずだ。
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