フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、
ふと浮かんだ疑問などをゆる~く書き綴る
何の専門家でもない私が経済的・時間的・人間関係の自由を得て、
人生のこと、世の中のこと、幸せについてなど、
一般庶民の目線で考える
幸せになろうとするより、幸せに気づくという生き方
人はなぜ、これほどまでに「幸せになろう」とするのだろうか。
収入が増えたら幸せになれる、理想の家庭を持てば幸せになれる、自由な時間が手に入れば幸せになれる。
そう信じて、多くの人が何かを追い続けている。
しかし、ふと立ち止まって考えてみると、不思議な事実に気づく。
かつて「これさえあれば幸せになれる」と思って手に入れたものは、今や当たり前になり、感謝すらされていないことが多い。
つまり「幸せ」を、「手に入れる対象」と考えた瞬間から、幸せは常に未来へと逃げていくのだ。
幸せとは、本来「状態」ではなく「認識」である。
同じ環境、同じ出来事の中にいても、幸せだと感じる人と、不幸だと感じる人がいる。
その違いは、持っているものではなく、気づいているものの違いに過ぎない。
朝、目が覚めること。
蛇口をひねれば水が出ること。
誰かに挨拶を返してもらえること。
こうした出来事は、あまりにも日常的すぎて、幸せとして数えられることは少ない。
しかし、これらが一つでも欠けた瞬間、人はそれが「幸せだった」と思い知る。
人は失ったときにしか、持っていたものの価値に気づけない生き物である。
だが、それは裏を返せば、失う前に気づくこともできる、ということでもある。
幸せに気づくとは、感受性を取り戻すことだ。
「もっと」「まだ足りない」という思考を一度横に置き、「すでにあるもの」に目を向ける行為である。
これは諦めでも妥協でもない。
むしろ、現実を正しく見る力だ。
幸せになろうとする人生は、常に不足感とセットで進む。
一方、幸せに気づく人生は、今この瞬間から始めることができる。
もちろん、努力や成長を否定する必要はない。
向上心は人生を豊かにする。
ただし、それは「幸せになるための条件」ではない。
幸せはゴールではなく、すでに足元にある風景なのだ。
人生を変えるのは、大きな成功ではない。
視点が少し変わることだ。
今日という一日を、何も特別なことが起きなかった一日として終えるか、当たり前の奇跡に満ちた一日として終えるか。
その選択は、いつも自分の「気づき」に委ねられている。
幸せになろうとするより、幸せに気づくこと。
この姿勢を持てたとき、人生は静かに、しかし確実に、豊かさを増していくのである。
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