フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、
ふと浮かんだ疑問などをゆる~く書き綴る
何の専門家でもない私が経済的・時間的・人間関係の自由を得て、
人生のこと、世の中のこと、幸せについてなど、
一般庶民の目線で考える
道路にゴミを捨てる人の心理と、その後に広がる見えない影響
道路にゴミが落ちている光景は、決して珍しいものではない。
コンビニの袋、空き缶、たばこの吸い殻、さらには家庭ゴミまで捨てられていることもある。
本来であれば誰でも「ゴミはゴミ箱へ」と知っているはずだ。
しかし現実には、道路へ平然と捨てる人が存在する。
なぜそのような行動が生まれるのか。
その心理の裏側には、いくつかの共通した要因が潜んでいるのである。
まず「責任の希薄化」という心理がある。
公共の場はみんなの場所であるはずだが、逆に言えば「自分の場所ではない」という感覚も生まれる。
自宅であれば散らかれば自分が困るが、道路であれば誰かが片づけてくれるだろうと考える。
その曖昧さが、罪悪感を薄れさせるのである。
次に「少量だからいい」という誤った認識がある。
たった一つの吸い殻、ガムの包み紙、ペットボトルのキャップ。
本人にとっては小さくても、同じ考えを持つ人が100人いれば100倍になる。
人は自分の行動を過小評価し、影響を軽く見積もる傾向がある。
この心理が、道路への投棄を正当化してしまう。
さらに、「周囲の環境が行動を決める」という側面も見逃せない。
きれいな道路では人は捨てにくい。
しかしすでにゴミが落ちている道路では、「自分もいいだろう」という基準の低下が起きる。
人間は環境に合わせて行動を変える生き物であり、ゴミの放置は連鎖を生みやすい。
では、捨てられたゴミはその後どうなるのか。
風や雨に流され、川へ落ち、やがて海へ辿り着くものもある。
海洋ゴミとして問題になっているマイクロプラスチックも、元をたどればこうした日常の投棄から生まれることが多い。
野生動物が誤飲し、命を落とす例も少なくない。
たばこの吸い殻はフィルターにプラスチックが含まれ、分解には十年以上かかると言われる。
道路脇の小さなゴミは、見た目以上に長い時間、環境に残り続けるのである。
一方で、自治体のゴミ処理には税金が使われている。
つまり、誰かが道路に捨てたゴミは、最終的に市民全体の負担になるということだ。
個人の無責任が、社会全体のコストへ転化している構図である。
道路にゴミを捨てるという行為は、単なる「マナー違反」ではない。
心理の油断、責任の放棄、環境への影響、社会コストの増大。
これらが複雑に絡んだ問題である。
だからこそ必要なのは、罰則だけではなく、「自分一人の行動が未来を変える」という意識である。
きれいな道路は偶然ではなく、人々の意識によって維持されている。
捨てないことは誰にでもできる小さな行動だが、その意味は決して小さくない。
道路がきれいである社会は、そこで暮らす人の心も整えていく。
自分のゴミを持ち帰るという習慣は、他者や環境への配慮そのものだ。
道路のゴミは、人の心の映し鏡なのである。
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