フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、
ふと浮かんだ疑問などをゆる~く書き綴る
何の専門家でもない私が経済的・時間的・人間関係の自由を得て、
人生のこと、世の中のこと、幸せについてなど、
一般庶民の目線で考える
アクセルとブレーキを踏み間違える高齢者事故――「衰え」ではなく「誰にでも起きる変化」
アクセルとブレーキの踏み間違い事故が報道されるたびに、「また高齢者か」という言葉が聞こえてくる。
しかし、本当にそれは年齢だけの問題なのだろうか。
高齢者自身の視点に立って考えてみると、この事故の構造はもっと複雑で、そして誰にでも起こりうる問題であることが見えてくる。
高齢者にとって車は、単なる移動手段ではない。
通院、買い物、知人との交流など、日常生活そのものを支える「足」である。
地方に行けばなおさら、車を手放すことは生活の自由を失うこととほぼ同義だ。
そのため多くの高齢者は、「危ないからやめろ」と言われても、簡単に運転をやめられない現実を抱えている。
一方で、年齢を重ねると身体には確実な変化が起きる。
足の筋力は低下し、関節の可動域も狭くなる。
反射神経も若い頃と同じではない。
さらに厄介なのは、本人がその変化に気づきにくいことだ。
昨日まで普通にできていた操作が、ある日突然うまくいかなくなる。
その「ズレ」が、ペダル操作という一瞬の判断に影響を与える。
踏み間違い事故の多くは、駐車場や自宅敷地内など低速・日常的な場面で起きている。「止めよう」と思った瞬間、焦りや混乱から強く踏み込んでしまう。
これは判断力の低下だけでなく、長年染みついた運転習慣も関係している。
とっさの場面ほど、人は考えるより先に体が動く。
数十年同じ感覚で運転してきた高齢者ほど、その癖は無意識に出やすい。
また、高齢者自身は「まだ大丈夫」「自分は事故を起こさない」と考えがちだ。
これは慢心というより、人間として自然な自己防衛反応である。
自分の衰えを真正面から認めることは、尊厳や自立を揺るがす行為でもあるからだ。
だからこそ、事故が起きた後に強い後悔と自責の念に苦しむ人も少なくない。
近年、サポカーや踏み間違い防止装置など技術の進歩が進んでいる。
これらは高齢者の運転を「奪う」ものではなく、「支える」存在であるべきだ。
技術は人の弱さを責めない。
静かに、しかし確実にミスの被害を小さくする。
その姿勢は、高齢者にとっても受け入れやすい。
重要なのは、運転を続けるか、やめるか、という二択で語らないことだ。
運転頻度を減らす、時間帯や場所を選ぶ、安全装置のある車に乗り換える、家族や地域と話し合う。
段階的な選択肢を用意することが、高齢者の尊厳を守りながら事故を減らす現実的な道である。
踏み間違い事故は、「高齢者の問題」と切り捨てて終わらせてはいけない。
誰もが年を重ねる。
今日の高齢者は、明日の私たち自身である。
だからこそ、この問題は社会全体で向き合い、支え合うべき課題なのだと思う。
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