フリーマン柴賢二郎の流儀
~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~
世の中に起きている不思議なことや、
ふと浮かんだ疑問などをゆる~く書き綴る
何の専門家でもない私が経済的・時間的・人間関係の自由を得て、
人生のこと、世の中のこと、幸せについてなど、
一般庶民の目線で考える
すれ違いの瞬間に見える「人の心」──譲る人と譲らない人の違い
廊下や通路ですれ違うとき、自然に道を譲る人と、そうでない人がいる。
狭い通路でお互いに一瞬立ち止まったとき、その人の性格や心のありようが不思議と浮かび上がる。
日常のほんの一瞬の出来事だが、実はその行動には、その人の「生き方」が表れているのではないかと思う。
まず、最も大きな違いは「他者への意識」ではないか。
譲る人は、相手の動きを観察し、「どちらが先に動けばスムーズか」を自然と考える。
「他人」を中心にした思考を持っている。
一方、譲らない人は、自分の進路や都合に意識が集中しており、相手の存在をあまり気に留めない。
ぶつかりそうになって初めて気づくことも多い。
これは、共感力や注意力の差でもある。
もう一つの要因として「育ちや習慣」もありそうだ。
幼い頃から「相手を先に通してあげましょう」と教わってきた人は、無意識のうちにそれを実践する。
譲ることが“自然な行為”として身についているのである。
逆に、競争や効率を重んじる環境で育った人は、「自分のペースを崩さないこと」が優先されがちで、譲るという発想が生まれにくい。
さらに心理状態も影響しそうだ。
心に余裕があるとき、人は穏やかに譲ることができる。
しかし、急いでいたり、疲れていたり、イライラしていたりすると、他人の存在に気づかないほど視野が狭くなる。
つまり、譲るかどうかは、その人の「心の余裕」を映す鏡でもあるのだ。
いつもは穏やかな人でも、忙しい朝にはつい我を忘れてしまうことがあるだろう。
この「譲る・譲らない」の違いは、車の運転にもよく表れる。
狭い道路で譲り合う場面や、交差点での合流、道路を横断しようとしている歩行者とのやり取りなどで、その人の本性が垣間見える。
譲る人は、相手の立場に立って考えることができる。
対向車が待っていそうなら自ら停まり、歩行者が渡ろうとしていれば迷わず止まる。
交通の流れを「自分だけでなく全体」で捉えている。
一方で、譲らない人は「自分が先に行きたい」「止まるのが面倒だ」と感じてしまう。
信号のない横断歩道でも、歩行者の前をそのまま通過してしまう人もいる。
もちろん、悪意があるとは限らない。
ただ、気づかない、気にしない、余裕がない。
そんな“無意識の自己中心”が原因であることが多い。
興味深いのは、同じ人でも状況によって態度が変わることだ。
朝の通勤時には譲らない人が、休日のドライブでは穏やかに譲ることがある。
つまり、「譲る・譲らない」は固定的な性格ではなく、そのときの心理や環境に左右される可変的な要素なのだ。
また、譲ることを「損」と考える人もいる。
譲ると自分が遅れる、相手に負けた気がする、と感じる人もいる。
これは、社会全体が競争的になっている現代の一面を映しているように思う。
だが実際には、譲ることによって生まれる「気持ちのよさ」や「小さな感謝」は、確実に心を穏やかにしてくれる。
車を少し停めて相手を通したとき、相手が軽く手を上げてくれるだけで、ふっと温かい気持ちになる。
あの一瞬こそが、社会の潤滑油なのだ。
結局のところ、譲る人と譲らない人の違いは、「他人をどれだけ意識できるか」「心にどれだけ余裕があるか」という点に集約されそうだ。
譲るという行為は、単なるマナーではなく、他者との共存を大切にする姿勢の表れである。
そして、それは人生にも通じている。
相手を思いやること、ほんの少し譲ること。
それが巡り巡って、自分の生きやすさにもつながっていくのではないかと思う。
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