「生活残業」という思考 ― それが生まれる背景と、私たちが向き合うべき現実

フリーマン柴賢二郎の流儀

~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~

世の中に起きている不思議なことや、

ふと浮かんだ疑問などをゆる~く書き綴る

何の専門家でもない私が経済的・時間的・人間関係の自由を得て、

人生のこと、世の中のこと、幸せについてなど、

一般庶民の目線で考える

 

「生活残業」という思考 ― それが生まれる背景と、私たちが向き合うべき現実

 

生活残業とは何か

 

「生活残業」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

これは、仕事が終わっているにもかかわらず、生活費を稼ぐために意図的に残業をする、あるいは残業せざるを得ない状態を指す言葉である。

単なる怠慢や非効率といった問題ではなく、そこには個人の努力だけではどうにもならない構造的な要因が横たわっているようだ。

 

本来、残業は業務量が一時的に増えた場合など、例外的に発生するものだ。

しかし現実には、残業代を前提に家計が成り立っている人も少なくない。

この歪みこそが、生活残業という言葉が生まれた背景である。

 

なぜ生活残業が生まれるのか

 

最大の原因は、基本給だけでは生活が成り立たない賃金構造にあると思う。

住宅費、教育費、社会保険料、税金。

これらは年々増える一方で、手取り収入は思うように増えない。

その結果、「定時で帰ると生活が苦しい」という感覚が生まれてしまう。

 

加えて、日本特有の長時間労働文化も無視できない。

早く帰ることに後ろめたさを感じる空気、残っている人が評価されやすい職場風土が、生活残業を黙認、あるいは助長してきた。

 

生活残業を個人の問題にしてはいけない

 

生活残業は、しばしば「本人の甘え」「効率が悪いからだ」と片付けられる。

しかし、それは本質を見誤っている。

問題は、時間を切り売りしなければ生活を維持できない仕組みそのものにあると思う。

 

残業代がなければ暮らせないということは、言い換えれば、平常時の労働が正当に評価されていないということだ。

これは個人の努力不足ではなく、賃金と労働のバランスが崩れているサインである。

 

心理的な側面も見逃せない

 

生活残業の背景には、経済的事情だけでなく心理的要因もある。

「忙しくしていないと不安」「職場に居場所がなくなるのが怖い」といった感情だ。

残業は、収入を得る手段であると同時に、自分の存在価値を確認する行為になっている場合もある。

 

この状態が続くと、仕事と人生の境界が曖昧になり、疲弊していく。

時間は増えても、豊かさは増えないという矛盾が生じてしまう。

 

私たちはどう向き合うべきか

 

まず必要なのは、生活残業を「当たり前」と受け入れない視点である。

残業ありきの生活設計が、本当に持続可能なのかを冷静に見直すことが重要だ。

 

同時に、個人レベルでは、支出構造の見直しやスキルアップによる収入源の分散など、選択肢を増やす努力も現実的な対策となる。

社会全体としては、基本給の引き上げや労働時間と成果の再定義が不可欠である。

 

生活残業が問いかけるもの

 

生活残業という言葉は、単なる労働問題ではない。

それは、私たちが「時間」と「生活」をどう扱ってきたのかを映す鏡である。

長く働くことが美徳とされてきた価値観を、一度立ち止まって見直す時期に来ている。

 

働くことは生きるための手段であり、目的ではない。

生活残業という現象を通して、その原点を思い出すことが、これからの社会にとって重要なのではなかろうか。

 

 

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