「アクセルとブレーキを踏み間違えた」という言葉の裏側――それは本当に“操作ミス”なのか

フリーマン柴賢二郎の流儀

~そよ風に吹かれて、ゆっくりと歩いていこう~

世の中に起きている不思議なことや、

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何の専門家でもない私が経済的・時間的・人間関係の自由を得て、

人生のこと、世の中のこと、幸せについてなど、

一般庶民の目線で考える

 

「アクセルとブレーキを踏み間違えた」という言葉の裏側――それは本当に“操作ミス”なのか

 

最近、「アクセルとブレーキを踏み間違えた」という事故報道を耳にしない日はない。

店舗に車が突っ込んだ、歩道を歩いていた人が次々とはねられた――どれも日常のすぐ隣で起きている出来事である。

 

報道を聞くたびに、多くの人がこう思うのではないだろうか。

「踏み間違えたなら、すぐ踏み直せばいいのではないか」と。

 

実はこの感覚こそが、この問題の本質を見えにくくしているようだ。

 

アクセルとブレーキを踏み間違える事故の多くは、「気づいた瞬間に修正できる状態」ではない。

むしろ、すでに運転者自身が車をコントロールできない心理状態・身体状態に陥っていると考える方が自然である。

 

 

人は強い恐怖や焦りに直面すると、思考が一気に狭くなる。

「止めなければならない」という意識があるにもかかわらず、足は逆の動きをしてしまう。

さらにエンジン音が大きくなり、車が加速することでパニックは増幅し、「さらに踏み込む」という悪循環に入る。

 

これは単なる運転技術の問題ではない。

人間の脳と身体の限界が引き起こす現象である。

 

にもかかわらず、事故はしばしば「高齢者の踏み間違い」「不注意による操作ミス」と個人の責任に還元される。

もちろん、個人の注意義務がゼロになるわけではない。

しかし、それだけで終わらせてしまうと、同じ事故は何度でも繰り返される。

 

ここで目を向けるべきは、なぜその人が、その状況で、車を運転せざるを得なかったのかという社会の側の問題である。

 

地方では車がなければ生活できない。

高齢になっても、買い物、通院、家族の用事など、車を手放せば日常が立ち行かなくなる。

免許返納が推奨される一方で、代替手段は十分に整っていない。

結果として、「不安を抱えながらも運転を続ける」人が生まれる。

 

さらに、現代の車は便利になった反面、操作系が複雑化している。

静かな車内、軽いペダル、強力なエンジン。

少しの踏み込みが大きな動きにつながる設計は、人間のミスを許容しにくい。

 

つまり、「アクセルとブレーキを踏み間違えた」という一言の裏には、

・人間の心理的限界

・高齢化社会の現実

・車社会から抜け出せない構造

・安全設計を個人任せにしてきた歴史

が折り重なっている。

 

これはもはや個人の失敗談ではなく、社会全体が抱えてきた歪みの結果である。

 

事故を減らすために必要なのは、「もっと注意しろ」という精神論ではない。

自動ブレーキや誤発進防止装置の普及、運転を前提としない街づくり、免許返納後の生活支援など、社会側が責任を分かち合う仕組みである。

 

「踏み間違えたら、踏み直せばいい」

それができない状況に人を追い込んでいるのは、私たち自身の社会なのかもしれない。

 

この問題を“誰かのミス”として眺めるか、“自分たちの課題”として向き合うか。

その選択が、次の事故を防げるかどうかを左右する気がしてならない。

 

 

 

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